え?中学行ってないの?
中1の6月から3月までね。あとは行ったよ
きっかけは些細なことでした。
母親に心配してほしくて不登校になったのですが、結局望みは果たされず、私が諦める形で学校に行きはじめました。
私ももう40代になりますが、未だ母は不登校の理由は知りません。
というか、話す機会もありませんでした。
今回は、なぜ不登校になったのか。あの時言えなかったことを、今だから書いてみようと思います。
不登校の原因は?母親に私を見てほしい
中学1年の6月に帯状疱疹になりました。
不登校のきっかけは、病気になったこと
受診した皮膚科で感染するから。と学校を一週間休むことになりました。
発疹の出かたが見たことのない異常なものだったので、母は私を病院に連れて行き、心配してくれたのです!
当たり前のことですか?
私には姉がいて、おたふくも、はしかも、水疱瘡も、全て姉から移してもらっていました。
わざと病気になるわけですから、当然心配などしてもらえません。
とりあえず姉の薬をもらい、姉の受診の時に私も診察してもらうのが当たり前でした。
ですが、初めて、本当に初めてと思うくらい、母が私を見てくれたのです。
それが嬉しくて、もっと私を見てもらうには?もっと構ってもらうには?
そう考えて、出した結果が「学校へ行くのを辞める」ことでした。
あの時、帯状疱疹にならなければ不登校にならなかったと思います
母親は、出来の良い姉しか見ていなかった
姉とは6歳、離れていたので出来ることには差がありました。
「お姉ちゃんはすごい」「お姉ちゃんは出来るのに」「お姉ちゃんと違ってダメな子」そう言われるたびに辛かったのを思い出します。
大人であれば6歳も違うのだから当然だ。と考えることができるでしょう。
しかし小学生が、親から「お前はダメ」と言われたら何も疑うことなく、自分はダメ人間と思ってしまうのです。
手伝いをすれば「できないんだから、何もしなくていい」「お姉ちゃんがいるから手伝わなくていい」と否定され家の中では孤独を感じていました。
単純に、もっと甘えたかったのだと思います
不登校の家族、それぞれの過ごし方
当時はまだ珍しかった引きこもり。それぞれどう対応したのでしょうか。
不登校の中学生、私は引きこもっていた
私が不登校なのを、母親が隠したがっていると姉から聞き、ほとんど外出することはありませんでした。
一日中ゲーム、昼夜逆転。ドラゴンクエストにはまったのもこの時期です。
母親から何か言われた記憶もなく、嫌われているというよりは「本当に私に関心がない」と感じていました。
とは言っても、不登校の話題はあからさまに避けて、腫れ物にさわるような対応だったので、この人(母親)はどうしたいんだろう?
と、子ども心に疑問に思っていました。
姉は、母親と私の仲介役
母親は、姉に不登校の相談をしていました。「私には何も言うな」という条件で。
そして私の考えを探るよう、頼まれてもいたようです。
母親はまったくの無関心ではないようでしたが、私には言わないよう口止めしていたこと、陰で私の話をしている事がとにかく嫌でした。
今思えば、姉の立場が一番辛かったのかもしれませんが・・・。
親は児童相談所へ通っていた
不登校2ヶ月後くらいから、週に1回、児童相談所に相談するようになりました。
もちろん私には内緒でしたが、後に姉から聞きました。
話の内容は不明ですが、明らかに変わった事があり
- 夕食を家族で食べる
- 母親が一緒にお風呂に入りたがる
- 私と一緒のベッドで寝ようとする
今まで近寄るな、くらいの感じだったので、正直気持ちが悪いと感じてました。
どう考えても、児童相談所で指導されたとしか思えずに、受け入れることはできませんでした。
言われてやるのも大変ですね
不登校中に、私がして欲しかったこと
私は母に対し、言われたから一緒に食事するのではなく、母の言葉で気持ちを伝えてくれるのを待っていました。
ただ一言「学校に行ってほしい」そう言われるのを待っていました。
当時テレビでは「学校に行きなさい!」と怒鳴る家庭の映像が放送されることがありましたが、私にとってそれは羨ましいものでした。
私にも本音でぶつかってほしい、そう思っていました。
両親が私のことを考えているのはわかりましたが、それよりもコソコソと児童相談所に通うことに対する怒りのほうが強かったのです。
さすがに半年もたてば両親も怒ってくれる。そう思っていましたが、腫れ物に触る両親の対応が変わることはなく、もう諦めて学校に行こうと考えていました。
姉いわく「学校に行くことを絶対に強制してはいけない」と言われていたそうです
不登校の子に、絶対にしてはいけないこと
ある時、珍しく両親が「一緒に出かけよう」と声をかけてきたのです。
親に騙され、児相職員と面談
いつも日曜日に児相に行く両親、その日は土曜なので安心していました。
「たまには外の景色でも見ない?」「パジャマのまま乗っていればいい」
さほど強引と思えなかったこと、土曜日だったことからパジャマのまま、顔も洗わず車に乗りました。
気付いた時には、車は児童相談所で止まり、職員らしき男性がやって来きました。
「近くに公園があるから散歩をしよう」どうやら、私を担当している職員のようです。
ボロボロのパジャマを着ている私は外に出たくありませんが、「行ってきたら?」と両親に言われ断ることができません。
私は両親にまんまと騙されたのです。
男性は、うちの母親が指示通りのことができているか確認してきました。
ご飯は総菜ではなく手作りか?誰と食べているのか?家族で話をする時間があるか?質問ばかりがつづきます。
子どもを大人の自己満足に利用する
「この人の指示で動いていたんだな」と考えながらも、とにかくこの恥ずかしい服装で外を歩くのだけは勘弁してほしい、なんとか逃げ出す方法はないかとそれだけを考えていました。
さらに両親に裏切られたという気持ちもあり一刻でもこの場を離れたい、そう願いました。
そのおかげか「母親が食事は毎日作っています、必ず父と食べています」「家族で良く話します」
男性の望んでいる回答を、早口で伝えることができました。
男性は満足していましたが、自分が担当している案件がうまくいったことへの充足感にすぎません。
私が戻った後も、両親はこのことについて何も話しませんでした。
もう、両親も含め、大人は信じられない。そう思った出来事でした。
二度と他人に何かを期待するのはやめよう。怒ってほしいという期待も持つだけ無駄でした。
こんな大人と関わらないよう、学校へ避難しようと決めました
最初からそれが狙いだったのでは?
結局、何も解決しないまま学校へ
何も解決しないまま、もう親には何も求めないと誓いました。
なぜ学校に行こうと思ったのか?家にいたくなくなったからです。
両親や児相の人達は、喜んだことでしょう。
もしかしたら全てが計算だったのかもしれません。
しかし私が望んでいたのは、母親が向き合ってくれることでした。
たった一度「どうして学校に行かないの?」「学校に行ってほしい」と声をかけてもらいたかっただけなのです。
両親は無関心ではなかったことも今ならわかりますが、子どもには難しいことです。
その後両親に見切りをつけた私は、ほぼ休まずに中学を卒業できました。
しかし30年近くたった今でもしこりは残り、母との関係は修復されていないのです。
たとえぶつかったとしても、直接話し合うべきでした。意見を言わずに逃げても、何も解決しないのです。
自分をわかってほしい、でも話したくない。ではどんなに時間をかけても前に進むことはないでしょう。
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